越一町会とは
   青年部の活動
   

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お江戸東京は中央区新川、そこに越一(えちいち)町会があります。
(左:地図の点線内)


現在新川には、越一・越二・霊一・東・西・南・北の7つの町会があります。それなのになぜ新川は1丁目・2丁目と二区分しかないのに、聞いたこともないような名の付く町名で7つに分かれているのであろうか?

以前新川は、新川(しんかわ)1〜2丁目、霊巌島(れいがんじま)1〜2丁目、越前堀(えちぜんぼり)1〜3丁目の7つの町がありました。昭和37年、住所を分かりやすくために「住居表示に関する法律」というものが定められ、中央区も昭和40年から徐々に住居表示が変更されていきました。そして新川は、昭和46年10月1日に変更されました。このような昔の区分で町会は成り立っているので、当町会は越前堀1丁目なので「越一町会」となっていました。


では、もう少し掘り下げて「越前堀」とはどうしてこのような地名が付いたのであろうか?


江戸時代に遡りますが、この地域に越前福井藩主である松平越前守の屋敷がありました。そこのお堀が「越前堀」と呼ばれていたようです。ちなみに、越前堀という町名になったのは明治5年からのようです。


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